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第2章 なぜ、中国で「二重システムモデル」が採用されたのか

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–外資三法の制定

ではなぜ、中国で「二重システムモデル」が採用されたのか。この疑問に答えるため、外資三法が制定される前の状況を見ることから始めてみたい。

2.1 外資三法制定前の中国の状況

アジア貿易・金融の専門家であるウェイン・M・モリソンの米国議会への報告書によれば、改革開放開始前の中国経済の状況は次のようにまとめることができる:

1979年以前、中国は、毛沢東主席の指導の下、中央計画経済あるいは中央管理経済を維持していた。同国の経済生産の大部分は、国が生産目標、価格管理、資源配分を設定することによって管理・監督されていた。1950年代には、中国の個々の家庭農場はすべて、大きなコミューンに集団化された。

中央政府は、迅速な工業化を支援するため、1960年代から1970年代にかけて、物的・人的資本への大規模な投資を実施した。その結果、1978年までに、工業生産の約3/4が、中央計画の生産目標に従って、中央管理された国有企業(SOE)によって生産されるようになった。民間企業や外資系企業は、一般に禁止されていた。中国政府の中心的な目標は、中国の経済を自給自足できるようにすることであった。外国貿易は、一般に、中国では作ることも入手することもできない物品を入手するために限定されていた。このような政策は経済に歪みをもたらした。経済の大部分は中央政府によって管理・運営されていたため、資源を効率的に配分する市場メカニズムは存在せず、企業、労働者、農業者が生産性を高めたり、生産物の品質に関心を持ったりするインセンティブはほとんどなかった(彼らは政府が設定した生産目標に主に焦点を当てていたため)。中国の(1953年~1978年の)年平均実質GDP成長率は、約4.4%であった。また、中国経済は、毛沢東主席の指導の下、1958年から1962年までの大躍進(大飢饉を引き起こし、伝えられるところによると最大4500万人の死者を出した)や1966年から1976年までの文化革命(政治的混乱が広がり、経済を大きく混乱させた)は、著しい景気後退をもたらした。中国では、1950年から1978年にかけて、一国の生活水準の共通の尺度である、一人当たりGDP(購買力平価(PPP)ベース)は倍増した。しかし、1958年から1962年にかけて、中国の生活水準は20.3%下落し、1966年から1968年にかけては9.6%下落した。また、中国の生活水準の伸びは、日本をはじめとする西側の生活水準に比べて見劣りしていた[1]

上記の改革・開放開始前の中国経済の状況のうち、特に「中国は・・・中央計画経済あるいは中央管理経済を維持していた」、「国が生産目標、価格管理、資源配分を設定することによって管理・監督されていた」、「民間企業や外資系企業は、一般に禁止されていた。」、「外国貿易は、一般に、中国では作ることも入手することもできない物品を入手するために限定されていた」等の事実は、改革開放40年間には大幅な変化があったものの、依然として維持されているものが多く、強調しておくべきであろう。


[1] Wayne M. Morrison、Congressional Research Service、China’s Economic Rise: History、Trends、Challenges、and Implications for the United States (2019), https://fas.org/sgp/crs/row/RL33534.pdf

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